2022年度無職見込み

絵と映像の学生

卒業制作に手を付けていない。

このままではヤバいということは分かってはいるつもりなのだが、どうにも手が進まない。というより体が動かない。とはいえいい加減ツイッターに長文自分語りを延々と流し続けるのもどうかと思い始めたのでここに書くことにした。(noteと迷った)

 

まず卒業制作とは何か。ただの制作ではない。卒業の制作である。

修学旅行がただの旅行ではなく修学の旅行であるのと同じように、卒業制作は制作の一つであるがただの制作であってはならないのである。世間体的には。

猶予はあった。2020年度のゼミ展が終わったのは秋頃、既におおよそ1年を越した空白の時を過ごしている。この一年間、完全に寝て食って過ごすだけの生活だったわけではない。知人の初音ミクオリジナル動画の手伝いをしたり、Live2Dで自分の絵を動かしてみたり、山の絵を描いてキャンプに思いを馳せたりしてきた。

とはいえこれらは制作であるため「卒業」と冠するもの足り得ないらしい。

ちまちました手を動かしていたところで、小さく完結する制作物では卒業の名と横に並べるもの足り得ないらしい。集大成などと大袈裟でなくとも良いと言いつつも、物理的なり大儀なりの、ある程度大きい制作物であることを前提にシステムが組まれている。

刻一刻と後に引けなくなっているどころか先に進めなくてもとにかく足を動かさなきゃならない段階に迫ってきているのに当の私は少しでもペンを持てれば御の字、悪ければ何かに掴まらないと身体すら起こせないような日々を過ごしている。私の運命や如何に。

 

と、ここまで書いたが卒業制作さえ何とかなれば卒業できるわけではない。卒業制作を何とかやり過ごすのが第一目標だとしても「卒業研究」でもらえる単位は10単位。私が卒業するのに要する単位数はあと16単位である。フル単GPA3.0で2年生を終えた輝かしい私の成績は3年前期に8単位ロストという功績を残した。これではFPSのK/Dのほうが高いなんてことに成り得る。そのままズルズルとなんとか一期2~4単位ずつ取得してきたが全く足りない。1、2年で多少多めの単位を選択しておいて本当に良かった。

 

現在「卒業研究」に加え、演習1講、座学2講を選択している。合計16単位。ギリギリである。何を落とすのも許されない。鬼門は座学2講のつもりだったが、絵コンテと1000文字レポートなら多分何とかなる。ところで演習1講は3年から継続して受けているもので、3年後期の時点でほぼ不登校状態だったが何とか単位がもらえた。今年は前期に一つ制作物を出しているしほぼ大丈夫だろうと高をくくっていたが、ここにきて心配になってきた。昨年のデジャヴのように不登校の今、学校では卒業制作中間講評が行われている。出席したほうが良いのか?とはいえ私には中間講評に出す成果物が未だ無い。もちろん他社の公表を聞くことは大変勉強になる。その点だけなら成果物がなくとも積極的に講評に参加するべきともいえる。

とはいえ気まずい。

事前に伝えても伝達が上手くいかず自分の講評時間が与えられてしまったらどうする。落ちぶれ4年の姿を未来ある3年の前に晒すのは反面教師になりえるのか?ただの悪影響を与えはしまいか?

と愚痴愚痴述べたところで結局恥をさらすのが嫌なだけだ。

矜持の問題なのかもしれない。1,2年時期がなまじ優秀だったために講師陣の中で少し有名人のようになっていた。「君が○○君か」などと声をかけられることも多かった。そんな自分がこれだけ落ちぶれているのが嫌なのだ。これだけ何もできなくなってしまったのが嫌なのだ。

でももしかしたらプライド云々のレベルは心の中ではとうに過ぎていて、純粋に人に会ってなさすぎるという理由でも登校のハードルが上がりに上がってしまったのかもしれない。人とまともに会話ができない。その状態で人前に出て行ったらどんな形であれ迷惑をかけまくる目に見えているのが嫌だ。

 

聡い他校の知人はコロナ禍における自身のモチベ低下を察知して休学中らしい。

正直その選択肢は脳内にあったが、まぁなんとかやれるだろうと思ってしまったのが良くなかった。己を信じられるという意味では良いことだが、過信しすぎるのも決断に遅れが出てよくないと学べてしまった。2020年が始まった頃は就活やインターンに励みモチベーションに溢れていたのにどこに置いてきてしまったのか。コロナのせいにすれば簡単だが、コロナによりモチベを奪われたというよりはコロナの環境が私に最適な怠惰で幸せな生活を教えてくれてしまったと形容するほうが最適な気がする。目前の問題は卒業制作だがそれをどうにか乗り越えたとしても単位問題が関わってくる。もし無事に卒業できたとしても、その向こうには乗り越えるものすらないただ真っ暗な未来ってワケ。どうすんのかね。